メンバーによるこれまでの楽曲や作品を振り返るセルフライナーノーツ企画!締めくくりはGu,Voの山口編です!

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セルフライナーノーツ
Ba.村山編
Gu,Vo ジューシー山本編
Dr.辰巳編

これまでのリリースを振り返る。
このタイミングで、自分たちの曲作りのベースについて改めて考えてみる。
結成の経緯が2バンドがくっついたユニット的なものであったことは以前も書いたが、だからこそなのか、曲の作り方は4人で音を出し合ってひたすら繰り返し繰り返しで作っていくことがほとんどだ。なんとなく誰かが核となるフレーズを持ってきてそれを軸に展開していく、ということが多いが、気がつけば思っていたのとはまた違う方向に着地する。
日々の膨大な無駄の積み重ねの先に曲が出来上がっていっている、という感じ。
ボーカルをとる方が基礎となるフレーズを作っている、というケースは多いが、曲の全体感までを先導することはあまりなくて、最終的にはメンバー全員が納得する形になったものが曲として完成している。
なので、bedの月数回入るスタジオは、「曲の練習」はほとんどなくて、ひたすら曲を作っている。そういうとカッコよく聞こえるのだが、実際は「曲を作ろうとして原型っぽいものをひたすらこねくり回してはまた潰してる」みたいなことがほとんどだが…それらの積み重ねの先に、録音された曲たちがある。
曲として作ったけど結局録音されなかった、みたいなものは片手で数えるほどしかないので、そういう意味では、形になるまでとにかく煮詰めている、ということが言えるのかもしれない…。
ということで、これはメンバーでも濃淡あるかもしれないけど、自分はbedの曲については「自分の曲」とか「ジューシーの曲」みたいな認識はなくて、全部「みんなで作った曲」みたいな感じで捉えている。
各作品のタイトルやライブ企画のサブタイトル、ライブのセットリストを決めるのは自分なので、全体的なバランスについては一応多少気にはしているが…。
前置きが長くなってしまった。各リリースごとの私感や印象的な曲を挙げていこう。
「turn it off」
記念すべき初めての作品。自分はこの時までMTRでの録音くらいしかしたことがなく、ちゃんとしたスタジオで録音すること自体が初めての経験だった。
友達のかおりちゃんがiscollagecollecitveというレーベルを立ち上げるということで声をかけてくれて、録音が実現。ジャケットやマスタリングもかおりちゃんの人脈で実現。DCのSILVER SONYAでマスタリングしている。
録音は西院のスタジオハナマウイにて、現Studio SIMPOの小泉さん。
小泉さんがバンドにすごく理解があったので、緊張せずに録れたと思う。まだ自分たちのアンプも持っておらずほとんどスタジオの機材を使用しているはず。
全曲印象深いが、『Immovable Guy’s Salvation』は、このアレンジが出来上がってから、lostage(当時)の清水さんや五味兄、OGRE YOU ASSHOLEのメンバーが良いと言ってくれたり、balloonsの藤本兄が紹介してくれたりして、じわじわと知ってもらえるきっかけになった曲かもしれない。録音は自分の歌がぶっきらぼうすぎて恥ずかしくて聴き返せないが…
「Response」
1stアルバム。「turn it off」を録った後、「hakaba VA」というdOPPO橋本企画のコンピ参加に話があり、京都のMOTHERSHIP Studioで『修羅場』を録音した。
同時にImpulse Recordsからのコンピの話もあったため、まとめて録音しようと思い立ち、『70000000000人間』と『うちあがる』を同スタジオにて2006年末(ちょうどM1グランプリを見ながらだった記憶)に録音とmix。
その後、「turn it off」と同様にスタジオハナマウイで残りの曲を録音し、アルバムとして完成させた。ただ、コンピの音源をそのまま再収録するのは嫌だったので『修羅場』は録り直し(だから砂場ver.というタイトルになっている。録音がちょっと乾いた仕上がりになったからつけた)、『70000000000人間』はギターのパンを左右反転させている(だからAlbum ver.だけど誤植があってAbum Ver.という表記になっている…)
『うちあがる』は、Mix段階でエンジニアの野村氏が「曲長い割に後半の展開退屈やからボーカルにちょっとエフェクトかけたよ」というバンド的には結構アレな提案を受けた。
その仕上がりは結構良かったので受け入れた…が、バンドに理解のある人たちと録音する大切さを学んだ1枚でもある。
『おとしもの(dub)』は、地元でこどもの時からずーっと知っているアリイくん(pre.FLUID)がRATVILLEというめちゃかっこいいダブバンドをやり始めており、何か一緒にできたら、と思いオーダーした印象深い曲。この瞬間という価値がしっかりとパッケージされていて痺れる。
録音からリリースのタイミングはドラムのはるちゃんはすでに社会人だったが、自分含む他のメンバーは大学卒業〜次の進路、など人生の岐路を迎える時期でもあり、バンドの状態はそこまで良くなかったような気もする。マスタリングをEP同様にDCのSilver Sonya にオーダーしたがChad Clark氏の体調不良で作業が遅れたりもあり録音完了からリリースまで結構時間がかかってしまった。その空白の時間のせいだったのか、バンド内のテンションも微妙に。
レコ発の東京編あたりでジューシーが「俺今決まってるライブ終わったらバンドやめるわ」って言い始めたりしたこともあった(しばらくしてから、スタジオで「やるわ!」の一言でその話は無くなったが…)
バンドというもののバランスの難しさや際どさを思い出したりして、アルバムを聴き返すとヒリッとする。でもその時にしかない感覚が閉じ込められている気もして、今聴くと悪くないな、とも思うし、この空気感は今再現できないなと思う。
印象的な曲は『sophisticated man』と『そして』
この時にしか出せない表現が息づいている。最初の結成時〜この辺りまでは、DC、ポストハードコア的な表現に近づけたい気持ちが強くて、でもやりきれないというモヤっとした感覚もよく現れているなと今になって思う。
「ON OFF」
「Response」をリリースした2008年あたり、バンドの状態はそこまで良くなかった気はするが、世の中的には歳やキャリアの近いバンドがどんどん世に出ていった時期でもあった。lostage、OGRE YOU ASSHOLE、MASS OF THE FERMENTING DREGS、qomolangma tomato…その流れもあったのか、bedのようなバンドでもライブにレーベル系の人が観に来る、みたいなことがちょくちょくあったりした。
その中で、最も具体的に声をかけてくれて、ライブの感想もちゃんとくれたのが、3P3Bのozkこと曽根さんだった。話を聞くと、リリースしてきたバンドの色とはまた別に、「The SmithsやThe cure、THE STONE ROSESのような、USよりもUKの湿り気を帯びたバンドがフェイバリットで、その匂いを感じるからbedをリリースしたい」というようなことを言ってくれた。
僕のフェイバリットバンドだったInspiral CarpetsやSUEDEなども大好きということで意気投合した。3P3Bからリリースする、ということに当時は意外だ、という声を結構もらったけれど、この経緯があったことがデカかったのだ。
3P3Bの周年企画ということで、コンピ「CARRY THAT WEIGHT II」に『マンデイトーキング』で参加し、東名阪ツアーにも参加した。
折しもこのタイミングで僕は就職からの配属先が東京になり、いわゆる遠距離バンド、になるのだった。メンバーに「東京勤務になったわ」と告げた時に、「ああ、そうなんや、まあ、ぼちぼちやったらええんちゃう?」みたいな言葉が返ってきて、そのくらいのノリだったから続けられたこともあるのだろう。そんな中で作ったのがこの「ON OFF」だ。
東京と京都を夜行バスや新幹線を駆使して毎週のように行き来しながら、実家の近くのコスモスタジオに長時間入って曲作りをする。
京都でライブを入れてそれに合わせて帰省し、スタジオに入り、ライブをする。
東京でライブをする時にはメンバーに午前中に東京に着いてもらって、スタジオに入ってからライブをする…。めちゃくちゃ無茶をしていたしメンバーにも無茶を強いていたなと今になれば思うけれど、この時はそれが原動力になっていた。
ちょうど京都METROの店長がFLUIDのジャックさんになったりして、bedを呼んでくれる時には遠征バンド扱いで僕の交通費を工面してくれたり、3P3Bがレーベルとして支えていてくれたことはもちろん、他にもたくさんの周りのサポートがあったからこそ継続できた活動だったと思う。
ON OFFのレコーディングは、梅田の兎我野町というホテル街に程近い場所にあったM4 IIで行った。lostageの『じゃあ、さようなら』というかなりの名曲があるのだがそれを録音したスタジオだというのが決め手だった。
メンバーみんなは家からの通いだったが、僕は梅田の大東洋やホテル関西に泊まってレコーディングした。
日々の生活環境が激変したこともあったのか、前作までにあったDC感、ポストハードコア感、みたいな、スタイル的なこだわりは薄れていき、「音楽を鳴らす」「歌を歌う」という根源的なところに少しずつ向かい合うようになっていったのだろう。
レコーディングでは、エンジニアの原田さんが僕の歌に色々と意見をくれて、「もっとやれる」「もっとリズムに乗れる」といった鼓舞をしてくれた。
本来歌うことは好きだったけれど、ことバンドにおいては歌と向かい合ってこなかった自分を歌と向き合わせてくれた作業だった。
2010年4月末、京都METROのFLUID企画でbloodthirsty butchersと初めて共演。出来上がったばかりの白盤サンプルを吉村さんに渡した。
後日、「4曲目までの流れが最高だ!ただ、ミックスはやり直せ!」というコメントをWE ARE!、perfectlifeの板垣さん経由で聞くことになる…
が、バンド的にはやはりこのリリースが一つのターニングポイントになり、歌に、曲にシンプルに向き合うことこそが自分たちのやれることなのだ、みたいな感覚になった。
2007年頃から盛り上がっていた同年代のバンドの隆盛と、当時一気に広がったtwitterを中心としたSNSでの投稿、そこでの吉村さんのツイート、などが相まって、一気に知ってもらえる人や、認めてもらえる人が増えた瞬間でもあった。
今聴くと、録音、ミックス、歌、もっともっとやれたことはあったと思うが、自分たちのバンドの歴史でも非常に重要な作品だと思う。
印象的な曲は『シンク』『そのまま』
驚くほど単純で簡単な演奏しかしていないが、歌詞も歌も、4人で演奏することで完成していく感覚がある。わからんけどコピーしてもこの感じは出せないのではないか…。
ここから歌詞を引用してくれるような曲が出てきたこともあったし、いろんな広がりを持たせてくれた、という意味でも大切な曲の一つだ。
「Indirect Memories」
2011年の4月に大阪に戻り、すぐに「still dawn EP」の録音をした。勢いがあったのでEPはすぐ完売。すぐに完売、というのは対外的にはかなりカッコいいのだが、バンドとしてはその作品にまつわる物語を紡ぐことが難しくなるので次に進むことを余儀なくされる。EPの手応えはあったので、3rd Albumは充実したものにしないと、と思いながら作っていた。
ジューシーも書いていたが、録音にかなり時間がかかった。ドラムテックを入れて、ベーシックを大阪の本町にあるスタジオで録り、ギターその他楽器の被せを別スタジオで、歌録りもミックスもかなり時間をかけた。それがむしろ普通のバンドのやり方なんだろうけれど…今まで「なんとなく」で済ませてきてたことともう一度対峙させられるような作業だった。
エンジニアの原さんがめちゃ忙しかったので、メインのスケジュールの合間を縫って作業を入れてもらっていた、というのもあるが‥録音の合間合間で原さんとする会話はかなり刺激的で、後々の録音との向き合い方の基礎になっているのは間違いない。
ギターの音色、歌のピッチ、ハモリ、コーラス、自分たちにやれることをもう一度掘り下げる作業でもあった。
ジューシー、村山、はるちゃん、自分、という4人でのグルーブとして一つの「型」みたいなものを構築できた作品でもある。この録音を通じて、後々の作品で関わってもらうLMスタジオの須田さんとも出会う。
印象的な曲は、『wall』と『通り過ぎたばかり』と『僕ら』
『wall』は歌詞が出来上がる少し前に吉村さんの訃報があったので、その時の気持ちが含まれたものになっている。いまだに演奏していると込み上げる時がある。
『通り過ぎたばかり』は完全にセッションで作り上がった。特に後半、ブレイク後の展開は、自分が遅れていったスタジオで僕以外の3人が作り上げていたのを覚えている。
『僕ら』はどうやってできたかびっくりするくらい覚えていないが、あの瞬間の4人の気持ちが詰まっている気がするし演奏しているときに後半の音の塊が自分でも訳わからなくなる、とてもエネルギーを使う曲だ。
「via nowhere」
本人も書いていたが、村山がしばらくバンドを離れることになって、当初は結構シリアスな雰囲気もあったんだけど、「バンドは続けてください」という村山のメッセージもあったのと、これまでにも何度かサポートで弾いてくれていたup and coming福本さんはもちろん、魚頭さんが「東京の時は俺弾くよ」とわざわざ連絡をくれたこともあり、なんとか今の体制でも前に進めそうだ、と前向きになれた。
これまではサポート体制では曲は作らない、という不文律みたいなものを自分の中で一方的に持っていたんだけど、それも無くして、ジューシーとはるちゃんと3人で香里園のN’Sに平日の夜入って曲作りする、という日々。収録のうち半分くらいの曲はその体制で作り上げた。
『プレイバック』は当時の通勤経路であった淀屋橋〜光善寺までの片道20分そこらを使ってiPhoneでリズムパターンを打ち込みながらざっくりと形を作ったし、『100万周年』はジューシーが茫洋とした弾き語りのデモみたいなやつを作ってきてそこから膨らました。
『シチュエーション/ジェネレーション』もジューシーが最初のリフパターンをgaragebandか何かで打ち込んだものを共有してきたはず。それに対して村山が「爆音でやりたいですね」みたいな返信をしてて、爆音感の全くないデモだったので、マジかよとか思ったけど結果的にそのアイデアが良い方向に作用していい曲になっているな、と思う。
『つまらない土曜』と『クライング』は村山がバンドに復帰してからアルバム録音までに、枚方市駅のAsis Music Studioにて一気に作り上げた。今はあまりプレイしないけど好きな曲だ。
今までにない曲の作り方や活動の仕方を試しながらも前進できた作品に仕上がっている。アルバムタイトルにもそんな思いを込めた。
この辺りから、はるちゃんのバンドの関わり方に「やり切った感」が出てきたようにも思う。結果的にはるちゃんのラスト作となる。
印象的な曲は『100万周年』
村山が復帰してレコーディングでこの曲のベースラインを弾き始めた時に、「ああ、この感じこの感じ」とやけに安心と高揚があった。
「right place」
2016年の年末にはるちゃんから脱退の申し入れがあった。予兆を感じてもいたので驚きは少なかったが、申し入れ時に「はるちゃん体制でもう1作品作るか」と言ってはみたものの、なかなかやめるとわかっているメンバーと新しいものを作ることは難しく、新たな形を求めてたっさんに思い切ってオファーをした。
相当な逡巡はあったと思うが、引き受けてくれた。「via nowhere」の制作時と同様に、やると決めたら推進力を持って前に進めることが肝心であり、その先導を切るのは自分でなければならないと思っていた。
傲慢と捉えられることもあったかもしれないが、早速初ライブを決め、はるちゃんとは円満の別れだったためたっさんとの引き継ぎ的なスタジオも実施。そして曲作りへと進んでいった。3P3Bからも離れて自主で全部やることにした。とにかく形にすることを求めていた。
『完璧すぎる』を新たな4人のセッションで作り上げられた時、ここからまだまだやれるという気持ちは強めの確信に変わった。4曲+同時に録音した『僕にはわからない』も含めて、結構特別な感慨のある作品でもある。
(slowly) To Flow
最新作なのでまだ思い出、ということでもないが…たっさん体制になって少しずつグルーヴが板につき、メンバーの生活も30代後半を迎えいい意味で落ち着きが出てきたタイミングでコロナ禍に突入した。ライブが出来なくなったり制限が多くなったり、思うように活動できない中でも配信ライブやライブ盤リリース、など自分たちなりの工夫を行いテンションを維持してきたつもりだったが、アルバムを作ろう、というテンションに持っていくのにはそれなりに時間がかかった。
結果的に、それぞれの生活との向き合い方を定める機会にもなって、リラックスと緊張感を併せ持ったような良い状態でバンドに臨めるようになったような気もする。
これまでより音楽やバンドにかけられる時間は減ったが、だからこそ得られた距離感があり、俯瞰的にバンドを見る余裕も生まれた。ゆっくりとした時間が周りで流れている。焦燥感やヒリつき、という時間を経てきたからこそ生まれる音がある気がして、そんなタイトルをアルバムにつけた。
今の4人じゃないと出せない、これまで過ごしてきた時間がないと出せない、そんな音が詰まったアルバム。
『シルエット』『無難なしぐさ』の流れは気に入っている。
20年。バンド自体は、中では色々あったものの休むことなく続けてきて、それなりに作品も残せてきて、まだまだやりたいことがたくさんある。
生活、環境、移り行く中での表現。
自分自身も、メンバーも。
これから何ができるのか、そこに不安はあまりなく、期待がある。
「消え去るより燃え尽きる」ことは出来なかったが、「小さな炎でも燃やし続ける」ことは出来る。
どんな色、どんな形、楽しみながらやっていきたいと思う。
山口将司 (a.k.a.北山通のならずもの a.k.a.能書き垂れ男 a.k.a.松ヶ崎の爆弾岩)































